「私たちはみな生命という贈物(ギフト)を授かっている。 私たちが命を使って行うことは、お返しの贈物なのだ。」エド 何かを理解しようとすると、いつもそうなのです… なぜこうなるのだろう? なぜ多様な生きものが失われていくのだろう? なぜまだ石油を掘り続け、 それで大気を汚染し、 海を汚すのだろう? なぜ? いったいなぜ? なぜを3回も掘り下げると、必ずお金にたどり着きます。 これから語るのは、 すべての文化に内在する、自己の物語。 「自分は何者か?」という問題への答。 人間であるとはどういうことか? その物語では、自分は分断された一個人で、 ばらばらに分断された他の存在の中にあって、 この宇宙とも分断されています。 あなたは私ではない、あの花も私とは違う、 何か別のもの。 実は、この自己の物語が 世界を作り出しています。 もし自分が、分断された個人で、 周りにいるのも、ばらばらの他人と、 他の生きものたちで、 この宇宙も自分にはまったく無関心で、 むしろ自分に敵対しているとすれば、 必ず自分の意のままにしたくなるでしょう。 他者を支配する権力を持ちたい、 いつなんどき自分の命を奪うかも知れない自然の 気紛れな力を、この手で制したいと思うでしょう。 いま、この物語は時代遅れになりつつあり、 もはや真実ではなくなってきています。 もう私たちはこの物語に共感することができません。 むしろ、その支配の方法が 解決できない危機を生み出しつつあるのです。 その危機が私たちの前に立ちふさがっていたものを除き、 自己の新しい物語と、人々の新しい物語に向かって 私たちは踏み出すことができます。 「聖なる経済学」 お金とは合意なのです。 それ自身に価値はありません。 価値があると人々が合意するから価値があるのです。 お金が何をするかを経済学者は語ります。 交換の仲立ちをするのだと。 物を数えたり管理するのに使います。 小切手という魔法の紙に 数字を書き込むと ありとあらゆる豊富な商品が 家に流れ込んできます。 何千何万の人々を貧困に陥れることさえも、 お金の魔術の頂点に立つ者なら可能です。 欠乏は、目に見えるレベルで 金銭システムに組み込まれています。 それは、利子付きの借金として お金が作り出されるからです。 銀行がお金を貸し出したり、 国家の中央銀行がお金を作り出すたびに、 同じ額の借金が発生し、 借金には金利が課せられているので、 必ず借金の方が作り出されるお金よりも多くなります。 人々は決して足りることのないお金をめぐって 互いを敵にした競争の中に落ちます。 もう一つ、金銭システムに組み込まれたものが、成長です。 あなたが銀行なら、お金を貸し出す相手に選ぶのは 新しい商品やサービスを作り出しそうな人です。 そうすれば利益を上げ、あなたに返済してくれます。 商品やサービスを作り出さない人に、 お金を貸し出すことはありません。 つまりお金は、より多く作り出す人の所に行きます。 しかし経済成長が基本的に意味するのは 自然だった物を商品に作り替えるような何かを、 あるいは贈り贈られる関係であったものを サービスに作り替えるような何かを、 見つけなければならないということです。 人々が以前は無料で得ていた物や お互いに助け合っていたことを 人々から取り上げて、何らかの形で売りつけます。 ものごとを商品に作り替えることで、 私たちは自然から切り離され、 コミュニティーから切り離されます。 目に見える自然は、単なる物の集まりです。 それが私たちを孤独にし、 生きるために必要な基本的なことさえ満たされません。 でもお金があれば、 買うことによって飢えを満たせるかもしれません。 物を買ったり、お金そのものを蓄えることによって。 そうして、私たちは成長の限界に近づいています。 地球はこれ以上の成長を支え続けることができません。 これが、当面の危機が消え去る見込みのない理由です。 「贈物(ギフト)」 私が子供心に感じていたのは、 何かが間違っているということでした。 これはあるべき姿ではないという感覚を、 たいていの子供たちが持っていると思います。 たとえば、こんなに月曜日が嫌いなのは変だ、 幸せなのは学校が無い日だなんておかしい。 学校は好きな場所であるはずです。 人生は愛しいものであるはずです。 私たちを生かしてくれるもの、人生を善くしてくれるものは、 私たちが働いて作ったものではありません。 空気も、自分の命も、 私たちが働いて作ったものではありません。 自分が受胎したのも、 呼吸ができるようになったのも、 自分で働いた結果ではありません。 地球が食べ物を与えてくれるのも、 私たちが働いた結果ではありません。 太陽も、私たちが働いた結果ではありません。 だから、生まれ持った感謝の気持ちを 私たちは内に秘めているのだと思います。 みんな私たちの労働の結果ではないのを、 ある意味わかっているから。 人生が贈物(ギフト)であることを知っているから。 贈物を頂いたと知ったときの、 自然な反応は感謝なのです。 何かをお返ししたいという欲求。 贈与(ギフト)経済のあり方とはまったく異なり、 現在の金銭経済では 全員が世界中の全ての人との競争の中にいます。 贈与社会では、自分の必要以上に持っているとき それを必要とする人に与えます。 それが、社会的地位を得る方法であり、 生活の安全を保証してくれる拠り所でもあります。 この大きな感謝を育てておけば 人々はあなたを気づかい、世話するようになります。 贈物(ギフト)がなければ、 コミュニティも存在しません。 社会がますます金銭化されるにつれて コミュニティが消えていくのが分かります。 人々はそれが消えたのを惜しみますが、 コミュニティーは金銭化された生活の 「付属品」とはなりません。 本当はお互いを必要としているのです。 贈物(ギフト)を捧げたいと望んでいて、 お金に捕らわれていなければ、そうするでしょう。 しかしお金が壁になっています。 そうしたいのは山々だが、 お金が足りるだろうか? 現実的だろうかと考えます。 お金がブレーキを掛けます。 心の底から美しいことをしてあげたいのに。 ホームレスの人々のために菜園を作ったり お世話をして自然と繋がり直す手助けをするとか? 有毒廃棄物処分地を浄化したり? 何ができるでしょうか? どんな美しいことをしてあげられるでしょうか? ではなぜ、それが現実的ではないのでしょうか? そのためのお金がないのはなぜでしょうか? 「変革」 ギフトの原理を実現した社会は 真実に、ひたすら根ざした経済。 私たちが直面する仕事は お金を、ギフトの本当の姿に合わせることです。 お金を作り出し、お金を循環させる 全く違う仕組みが必要になります。 たとえばマイナスの利息を採り入れます。 これが高利貸しとは反対の効果を生みます。 また、コストを内部化します。 そうすれば環境を汚染することはできず 未来の世代にコストを払わせることもできなくなります。 また、社会的配当を採り入れ、 共有財(コモンズ)であるべきものから得た富を分け合います。 土地、地下水、文化遺産から得た富です。 また、経済の機能を地域に取り戻します。 また、あらゆる形の個人どうしの金融を採り入れ、 個人の間でお金が回り出します。 現在のお金のシステムから離れるときに 何が起こるのでしょうか? 現在のお金のシステムは ますます機能不全になります。 成長を維持するために、 ますますコストがかかります。 システムの維持に必要な速さで 経済成長を続けることは どんなに努力しても不可能になります。 経済成長はさらに貧困を作り出すだけです。 人々はもう耐えられないのです。 この人為的に引き起こした競争の 頂点にいる人たち、勝者たちでさえ、 幸せではないのです。 このシステムは彼らのためにもなっていません。 これから何度も危機が訪れるのを目にするでしょう。 度重なるごとに深刻さが増していくでしょう。 危機が起こるたびに 私たちは集団的な選択を迫られます。 このゲームを放棄して人々の中に加わるのか? それとも、もっと強くしがみつくか? どの時点でこの目覚めが起きるかを 決めるのは、じつは私たちなのです。 「大人になる」 これはみんな大きな間違いだったのでしょうか? これはもっともな疑問で、 何度か間違いを犯したことは確かなようです。 かつて地球上で起きた恐ろしい出来事が、 世界を見回せば いまも続いているのが分かります。 こう考える人もいます。私はこんなのは嫌だ、 文明は巨大な間違いだったのだと。 私は、この長い分断の旅が けっして間違いではなく、 もっと大きな過程の 一部だと見るようになりました。 それは1960年代の環境運動とともに 始まったように思います。 それは集団意識への最初の目覚めでした。 宇宙飛行士が宇宙に出て、 分断の極みを体験しました。 電送された写真は、 今でも私たちに愛の心を呼び起こします。 私たちは地球に恋してしまったのです。 人類が大人へと成熟していく過程の一部なのです。 もうひとつ、これは成人になる通過儀礼で、 古い世界は解体し、 新しい世界が生まれるのです。 子供は遊びますね。 子供は遊びを通して贈物(ギフト)の感覚を養いますが、 まだそれを本当の目的に使うことはありません。 これが、今の人類がしていることなのです。 これまでやりたい放題やってきました。 技術と文化という贈物(ギフト)で遊び、 このギフトを発達させてきました。 私たちは今、大人になる時期を迎え、 それを本当の目的に使うときが来たのです。 最初は、これまでに作った傷を 癒すのだと思います。 癒さなければならないものがたくさんあります。 ほとんど不可能でさえあります。 私たちは、地球上に奇跡を起こすという 大事業の中にいると言えるでしょう。 つまりこれは、 現実の古い理解からは不可能だが、 新しい理解では可能になるような ものなのです。 実は、それこそが必然なのです。 それ以下のものは、試みる価値もないのです。 字幕翻訳:酒井泰幸